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これまでの園長だより

祖母との対話

お盆休み明け、子ども達の元気で賑やかな歓声に包まれながら、やっぱりここが私のホームだなぁとしみじみと感慨にふけった一日となりましたが、皆様のお盆休みはいかがでしたか?

今年のお盆は雨も多くmお墓参りも大変だったと思いますが、広島市内のお墓は、色とりどりの盆灯ろうで圧巻ですね!


私もお盆休みは、実家の福岡に帰省し、お墓参りなど致しました。

また祖母の米寿(88歳)父の古希(70歳)、そして伯父の還暦(60歳)のお祝いがあり、子ども7名を含む18名が勢ぞろいしました。

私は三姉妹の長女ですが、母と妹たちが準備などを頑張ってくれたおかげで、それはそれは楽しい場となりました!

やはり家族の存在は有り難いものだと感謝致しました。

中でも、今年88歳を迎える祖母ですが、ビールで乾杯し、お料理もきちんと頂ける程歯も丈夫で、100歳は余裕かなと思いました!!


祖母とは学生時代から社会人にかけて、6年ほど同居をしていましたが、あまり深い話をしたことがありませんでした。

しかし今回のお祝いの席で、初めて終戦時18歳だった祖母の、戦争体験談を聞かせて頂きました。

当時、福岡県八幡の製鉄所で働いていた祖母は、やはり製鉄所ですから、すさまじい空襲を受けた中をかいくぐって生き延びた一人です。

幸いにも祖母の家族は、誰一人戦死者が出なかったようですが、空襲で焼け野原になった所を、遺体をまたぎながら帰路についたこともあると、涙ながらに話してくれました。

8月6日に広島に原爆が落とされ、8月9日には祖母のいる小倉に落とされるはずだった原子爆弾。しかし、一説によると、空襲を受けないように、8月9日の朝から、製鉄所周辺ではタイヤを燃やして黒煙を空高く上げていたそうです。

それによってか悪天候によってか、アメリカ軍は原爆の投下地を、小倉から長崎に変更したとも言われ、タイヤを燃やした小倉の方々は、自責の念にかられたという話も聞きました。

主人の祖母は、ここ広島の地で被爆しましたが、建物の影だったためかろうじて一命を取り留めました。

私の祖母も、今にして思えば原爆によって命を落としていたのかもしれません。

また、27年前に亡くなった祖父は、鹿児島県の知覧から、特攻隊として飛び立つ直前に終戦を迎えたため、一命を取りとめた一人なのです。


今年で終戦から69年を迎え、当時の生きた記憶を語れる方が、どんどん減っていますが、昭和47年生まれの私でさえ、戦争によってもしかすると生まれなかったのかもしれない身だった訳です。

もしもまだ、お身内の方で戦争の記憶を語れる方がいらっしゃるのであれば、ぜひしっかりと伝え聞いておきましょう!

改めて自分の命が今ある事に感謝が芽生え、その命を我が子達につないでいける事に、ただただ感謝の気持ちでいっぱいになりました。

今ある平和は、ご先祖たちの犠牲の上にある事を、いつまでも忘れずに居たいものです。